Ⅲ 山の魔力の巻②

木村東吉さんの「富士山と五湖の自然と暮らしに魅せられて」

知れば知るほど愛着が増す富士山と五つの湖

木村東吉さんの連載エッセーは、折り返しの第6回目。

「山の魔力」の後編です。

「日本の象徴」富士山がもたらす山中湖、河口湖、西(さい)湖、

精進(しょうじ)湖、それに本栖(もとす)湖という水の恵み。

すこしだけ、歴史をたどってみませんか?

(毎月25日と10日ごろにアップ。全部で6か月の予定です)

文/木村東吉

富士五湖は神様の汗と涙でできた!?

だまされた、と気づいたときには、すでにかなり登りはじめていた。

アイツが山に登るなんてことは考えられなかったが、それでも地元に住んでいるだけに、その情報はかなり信憑(しんぴょう)性がある、と信じていたのだ。だが、甘かった。頂上までの距離や時間もまったくわからないし、水筒の水はほとんど底をつきかけていた。

いまから25年ほど前の、夏のことだ。ボクは現在のノームの前身である「西湖レイクサイド・キャンプ場」でキャンプをしていた。ある日の夜、当時の管理人だったH氏と管理棟で談笑していたら、西湖の北岸にそびえる「十二ヶ岳」の話題になった。

「このキャンプ場からほんの30分も登れば頂上で、そこからの眺めは最高だよ!」とH氏は、さも何度もその山の頂に立ったような口ぶりで自慢する。だが、ボクが彼の言葉を信じるに値する理由もあった。それは、彼が著名な山岳家である、故・長谷川恒男氏と懇意にしていたからである。

長谷川氏は「十二ヶ岳」の中腹にあるクライミング・ゲレンデで、登攀(とうはん)の練習をしていたらしく、その際に「西湖レイクサイド・キャンプ場」へ足しげく通ったという。その証拠に、長谷川氏からの直筆の手紙も見せられた。

翌朝ボクは、なんの疑いもなく、友人と3人でこの山に登ることにした。夏だったし、念のために水筒には500mlほどの水を入れて行ったが、それ以外、口に入れるものは何も持たなかった。ボクよりさらに愚かな友人のふたりは、水さえも持っていなかった。

通常ボクは、人が口にする山での所要時間の、約半分で登る自信がある。昭文社から発行されている山地図を参照して登っても、いつも半分の時間で登頂する。これにはいくつか理由があって、まずひとつは、昭文社の地図に出ているタイムは「40歳くらいの男性が、小屋泊の装備で登る」ことが基準値となっている。が、ボクはそれよりはるかに軽量な装備で登るし、当時はまだ30歳を過ぎたばかりだった。それに日頃からフルマラソンを走る体力をもっているし、あまり休憩もとらない。

だが、「30分もあれば頂上だよ」とH氏から聞かされた山の頂が、40分経過しても見えない。3人で分け合った水筒はすでに空っぽで、オマケに友人のふたりは短パンを履いているせいで、やぶでスネが切り傷だらけだ。幸いボクは長いパンツを履いていたが、汗でパンツが脚にまとわりつく。

結局、90分ほどで「十二ヶ岳」の頂上に立つことができた。

「神様が富士山を造ったとき、その汗と涙で富士五湖ができた」という地元伝承を耳にしたことがある。幼い子どもでもそんな話は信じないと思うが、この「十二ヶ岳」の頂に立つと、その突拍子もない伝承が信じられるほど、そこからの絶景には息を飲む。

目の前に雄大な富士山がそびえ立ち、その足元には西湖が広がる。右手(西)には本栖湖が見え、その向こうには南アルプスの白い峰々を見渡すことができる。西湖の左手(東)には河口湖が広がり、その向こうに富士北麓(ほくろく)の自衛隊の演習場が見え、その先には山中湖が。精進湖だけが山の陰に入って見えないが、それ以外の湖は、まるで富士山を彩る宝石のように輝いている。

  十二ヶ岳から見る富士山と河口湖、西湖。

十二ヶ岳から見る富士山と河口湖、西湖。

  「クライミング・ゲレンデ」で汗を流す筆者。

「クライミング・ゲレンデ」で汗を流す筆者。

 

富士五湖とひと口に言うけれど…

実際の歴史はこうだ。

かつては、富士山のふもとに大きな湖が広がっていた。あまりにも広大な湖なので、それは「せのうみ(石花海)」と呼ばれていた。だが西暦864年、貞観(じょうがん)5年のこと。富士山の西に位置する長尾山が噴火した。のちにいわれる、「貞観大噴火」である。

この「貞観大噴火」によって、溶岩流が「せの海」に流れ込んだ。そして、その大きな湖を「西湖」「精進湖」「本栖湖」の3つの湖に分けた。

だから、この3つの湖の湖面標高はまったく同じで、約900mである。河口湖がもっとも低く、830m。山中湖はもっとも高く、998mである。したがって、「富士五湖」とひとくくりに呼ばれるが、「西湖」「精進湖」「本栖湖」の3湖は同じ湖だったが、河口湖と山中湖はまったく別の湖である。

が、それなのに、それなのに。

「西湖」と名づけられたゆえんはご存じか? これは単純に、「河口湖の西に位置するから」つけられた名前であり、あまりにも安易なネーミングなのだ。だが、しかし……。かつての人々の暮らしぶりや人口分布などをかんがみれば、より大きな集落を中心として、人々の間で呼び名が定着していくことは理解できる。

たとえば、山梨の地元では甲府盆地を中心とする地域を「国中(クニナカ)」と呼び、富士五湖をはじめとする富士北麓地域や、県の東部地域を「郡内(グンナイ)」と呼ぶ慣習が残る。富士五湖地方は「南都留(みなみつる)郡」という、確かに「郡内」に位置するので理解できるが「クニナカ」という呼び方は、いささか傲慢(ごうまん)すぎやしないか?

まあ、誇り高き甲斐の人の意識はさておき、「西湖」というネーミングは、いかにも気の毒だ。だが、古くから存在する名前には、百歩譲って我慢することにしよう。

ボクがこの地域に引っ越してきた頃、ここは「足和田村」という村だった。村の南側に、河口湖と西湖に寄り添うように「足和田山」がそびえているので、その名前はよく理解できる。だが、「平成の大合併」によって「足和田村」は、河口湖町、勝山村、上九一色村の一部と統合され、「富士河口湖町(ふじかわぐちこまち)」となった。

村を象徴する「足和田」という名前が消え去ったこともさることながら、「足和田村西湖」という住所が「富士河口湖町西湖」という名前になったことが、ボクにはどうしても合点がゆかない。傲慢すぎるぞ! 富士河口湖! という憤りさえ感じる。

この名前じゃ、まるで西湖が河口湖のオマケみたいではないか! 「西湖」という名前じたい、すでに「自主性」が失われているのに、新たに市町村合併したとき、さらにこのような名前になるなんて、ちょっと西湖をバカにしちゃいないか?と、都会からやって来て、なにを勝手なこと言っているとまた叱られそうだが、なんとなく腑に落ちないのである。

  西湖の朝は、静穏そのもの。

西湖の朝は、静穏そのもの。

 

富士山麓は美しい大自然のドラマの舞台

「貞観大噴火」に話を戻そう。

「せの海」に流れ込んだ膨大なる量の溶岩流は、大きな湖を3つに分けた。そして、湖の多くの部分を飲み込んだ。飲み込まれた湖は荒涼たる原野に姿を変え、溶岩流が冷えて、黒々とした荒野が広がった。

だが、「貞観大噴火」から約600年の歳月が経ち、そこに苔がむし、やがて草が生え、木樹が生い茂り、さらに600年の歳月をかけて広大なる森を創りあげた。それが、現在の「青木ヶ原樹海」である。

ちなみに、「青木ヶ原樹海」の広さは、東京の山手線内の広さに匹敵するという。つまり、かつての「せの海」の広さは、「西湖」「精進湖」「本栖湖」に、「山手線内」の地域を加えた広さであった、と言えるのだ。それ以外にも小さな池や水たまりが存在し、それらに襲いかかった溶岩流は高熱による水蒸気によって一気に膨らみ、それが落盤等によって「風穴」や「氷穴」などになったといわれている。

このように、この地域では歴史上、壮大なる大自然のドラマが幾度となく生まれてきたのである。それは「神様が富士山を造った」という伝承より、はるかにロマンティックであり、ドラマティックであった。

どこの土地がどのように傲慢であってもかまわないが、どうせなら、せめてこの壮大なる歴史上のドラマを感じさせるネーミングをしてほしいと、心の底から願うばかりである。

©TOKICHI KIMURA  2016

青木ヶ原樹海の足元は、ほとんどが溶岩と腐葉土。

青木ヶ原樹海の足元は、ほとんどが溶岩と腐葉土。

 

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