忘れられない名物シェフ「キクちゃん」の思い出
すこし間があいてしまった第11回目。
お待たせしました!
東吉さんの心の奥に、いまでも生きている、
富士北麓(ほくろく)の食べ物屋さん。
どこかほろ苦い“トウキチワールド”へご案内!
文/木村東吉
いい食べ物屋の条件
繁盛する飲食店の第一条件は「味」だと思うし、そうあってほしい。ほかにも、その店の価格帯、立地条件や雰囲気、店主の人望、あるいは意図的につくられた評判なども要因になりえるが、長らくその地で生き残ろうとすれば、最終的には「味」と「価格」の相関に淘汰(とうた)されるのではないか。
これからご紹介する店は、けっしてお世辞にも「美味しい」とは言えない。では、「価格」が特别に安いか?と問われれば、まあまあ安いかもしれないが、格安ではない。だが、おそらく地元では知らない人はいないのではないか?というくらいに評判の店だった。いや、訂正。「評判の店を経営している人物」だった。
店の名前は「蘆名(アシナ)」という。一応、お好み焼きの店である。そこを経営していたのが「喜久(キク)ちゃん」。「蘆名」という名前は知らなくても、「キクちゃんの店」と言うと、皆うれしそうな顔をして「あー! 行ったことあるよ!」と声を揃えたものだ。
何ゆえに皆が「うれしそうな顔」をするのか?
それは「キクちゃん」の人柄である。しかし、その人柄に反して料理はマズかった。これは、飲食店を経営する者にとって致命的なはずである。が、それでも「蘆名」はずっと経営を続けていた。
ボクとキクちゃんが出会ったのは、河口湖に越してきたばかりの頃だから、1996年とか97年くらいだったかもしれない。その頃、キクちゃんは「祇園(ぎおん)」という名前のお好み焼き屋で働いていた。
ここでちょっと「お好み焼き」について説明させてもらう。
「お好み焼き」の本場が関西であることは、誰しもが認めるところ。が、大きく2種類の焼き方があり、その焼き方によって「広島風」と「京風」とに分かれる。
鉄板に小麦粉を溶いたモノをクレープみたいに薄く焼き、その上にキャベツやその他の具をのせて焼くのが「広島風」。すべての食材が入った金属製のボウルの中で、あらかじめぐちゃぐちゃに混ぜあわせて(豚肉などは別にして、先に焼いておく)、鉄板で焼くのが京風である。
大阪出身のボクは断然、「京風」のお好み焼きファンで、「祇園」と名づけられたその店に吸い寄せられるように入っていった。
店内では元気な若い男が二人、大きな鉄板の上でお好み焼きを焼いており、小柄ながらガッチリとした体型で、色が東南アジアの人のように黒い男がキクちゃんだった。キクちゃんは東南アジア人のように色が黒いだけではなく、カールした髪、ギョロッとした大きな目も、どことなくインドネシアなど、南の島の人を連想させた。
もう一方の男は逆に背が高く、ホリが深くて色が白い。こちらのほうはロシア人のような雰囲気だ。
インドネシアとロシアの凸凹コンビが「京風」のお好み焼きを焼いているだけでも、十分にその店を特徴づけていたが、饒舌(じょうぜつ)なキクちゃんの魅力が、何よりもそこに客を引き寄せていた。
「なぜ祇園という名前を?」と訊ねたら、オジサンが京都にいて、そこでしばらく修業をしたから……と言っていた。その修業の成果はまったく感じられなかったが、それでもボクは頻繁に「祇園」に通った。
憎めないヤツ
ある日「祇園(ぎおん)」が突然、閉店したと思ったら、キクちゃんは「蘆名(アシナ)」を始めた。そのときになって初めて聞いたが、「祇園」は雇われ店主として営業していたが、そのオーナーとモメて独立したみたいである。まあ、よくある話だ。
「トウキチさん! 開店祝いに店の看板を書いてくださいよ!」と、キクちゃんはもっちゃりしたアクセントで言う。
「看板書けって言っても、オレはそんなもん書いたこともないし……」と渋っていたら、「なんでもいいですよ! トウキチさんがチャチャッと何か書いてくれれば、店の玄関に飾るから」とキクちゃん。このへんのイージーゴーイングなところが、いかにもキクちゃんらしい。
結局は書道用の半紙に太めの毛筆で「蘆名」と書き、端っこに自分の名前のハンコを押して、それを立派な額縁に入れて開店祝いとした。
「蘆名」という複雑な字画、いかにもそれらしいハンコ、そして立派な額縁によって、自分で言うのもなんだが、いい感じに仕上がっていた。それをキクちゃんに渡すと、さっそく約束どおり店の玄関に飾ってくれた。
キクちゃんは面倒見のいいことでも評判だった。キクちゃんに何かを相談すれば、必ず関係各方面に声をかけ、馳せ参じてくれる。
いまでは日本を代表するトレイルランナー、石川弘樹もキクちゃんに世話になった一人である。かつて石川弘樹がまだ学生だった頃、我が家によく出入りしていて、ボクの仕事のスタッフを務めてもらったことがある。
あるとき、ボクの主催するイベントのスタッフとして参加していた石川弘樹が具合悪そうな顔をしていたので、どうしたんだ?と理由を聞くと、低い声でぼそぼそと経緯を話しはじめた。
「いやあ……。じつはきのうの遅くに河口湖に来たんですが、きっとトウキチさんはもう寝ていると思って、そのまま蘆名に行ったんです」
自慢じゃないが、昔から寝るのが早い。午後9時にはすでに夢の中である。勘違いしないでほしいが、その当時はまだ40歳を過ぎたばかりで、老人の早寝とは違う。(もっとも、いまでも早く寝るが)
石川弘樹が続ける。
「で、いつものように、店のメニューにはないシチュウをごちそうになったんですが……」
蘆名はお好み焼きの店だった。だが、その日のスペシャルメニューがいくつもあって、それはキクちゃんの気分と、食品の在庫状況しだいである。
「そのシチュウときたら、ジャガイモとかニンジンがまるごと入っているんです。まるごとですよ!」と、石川弘樹は目を丸く大きく見開く。
「でも、いつものようにごちそうになったんだろ?」とボク。
「ええ、そうなんです。おまけに泊めてもらったんですが……。朝から胃の調子が悪くて……」
石川弘樹の表情を見ているだけで、そのシチュウの状態が容易に想像できた。ある日、きょうは美味しい干物が手に入ったとキクちゃんが言うので、それを注文したら、鉄板の上でホッケの干物を焼きはじめた。干物は直火で焼いてこそ、その味が引き立つ。いくら美味しい干物でも、鉄板で焼いたらだいなしだ。
が、それでもキクちゃんは憎めない、いいヤツだった。
突然の閉店
そんなキクちゃんが、4年ほど前に突然、他界した。原因は脳腫瘍である。そういえば、まだ「祇園(ぎおん)」で働いていた頃、脳腫瘍で開頭手術をしたことがあると言っていた。
キクちゃんは当時、まだ40歳を過ぎたばかりの頃で、その表情からボクもまったく深刻には受け止めていなかったが、その病は目に見えないところで、確実にキクちゃんの肉体をむしばんでいたのだった。
ウエイクボードの元全日本チャンプである弘田登志雄(本連載の第4回目参照)、石川弘樹とともにキクちゃんの葬儀に参列した。
キクちゃんの愛妻(キクちゃんは尻に敷かれていたが)であるヤッちゃんが、泣きながらキクちゃんの最期を語ってくれた。
たび重なる手術で、最後は手術の痛みから一刻も早く解放されたがっていたといい、ようやくその痛みから解き放ってあげることができた、とヤッちゃんは少しだけ笑みを浮かべた。痛みに顔を歪めるキクちゃんを、どうしても想像することができなかった。
葬儀のあと、「蘆名」の前を通ると、主人不在の店の玄関に、ボクの書いた店名が雨の中に虚しく浮かんでいた。
©TOKICHI KIMURA 2016