世にも美しい「富士の見える庭」をもつ夫婦の潔さ
いよいよ佳境の第9回目に登場するのは、
文字どおり、スーパーな人々です。
富士のふもとを、わが「楽園」にしてしまおう!
この美しい場所にぞっこん惚れ込んでしまった、
すてきなご夫婦からご紹介しましょう。
永遠の「余所者」!?
この地に暮らしはじめてもっともむずかしいと感じるのは、「人」である。もともとこの地に暮らす人々と、我々のような「移住者」の間には大きな隔たりがある。
「来たり者(キタリモノ)」という呼び名がある。先祖代々この地に暮らしてきたのではなく、外部からやって来た人間のことをそのように呼ぶ。
それでは、どれくらいここに住めば「キタリモノ」ではなくなるのか?
ボクは、21年間ここに暮らしているが、自他ともに認める正真正銘の「キタリモノ」である。 おそらく辞書で「キタリモノ」と引けば、ボクの顔写真が出てくると思う。というのは真っ赤なウソだが、21年ごときでは「キタリモノ」の烙印(らくいん)は消せない。
友だちのケイゴ(第一話「キャンピングライフの巻」参照)は、西湖で生まれた。しかし、彼の祖父が同じ県内の大月の出身者で、自分もやはり地元の人々との隔たりを感じることがあるという。だから、この地で生まれても「キタリモノ」から解放されることはなく、少なくもと50年以上住んでいても「キタリモノ」は完全に希釈されるわけではない。
そして、さらにやっかいに感じられるのは、もともとこの地に暮らす人々が、「キタリモノ」に対して根拠のない優越感を抱いているということである。
「なぜ、俺たちが余所(よそ)者の言うことに耳を傾けなければならないのか?」という意識が、根底に、暗い池の底のように暗澹(あんたん)と広がっている。
たとえば、こういうことがある。
ボクがこの地の自然に対して、なんらかの提案をするとする。そして、その提案は地元の人々にとっても有益な提案だとする。だが、それをボクが提案すると、まず100%通らない。
なぜか?
「なんで余所から来ている人間の言うことを聞かなければならないのだ?」と、反対意見が起こるらしい。これは地元選出の町議さんに聞いた話だから、まちがいない。
もちろん、これはこの地だけの話ではない。日本のいたるところに点在する、「田舎」にはびこる問題点である。
つまり、「新参者」は口を出すな……というわけである。
かつて、作家の故・景山民夫氏は田舎者の定義として、「自分の価値観を押しつける人だ」と言っていた。洗練された人間は、相手の意見や意志を尊重し、そこに自分の意見を融合させ、双方にとって快適な環境をつくりあげてこそ、真の「ソーシャル」が構築されるということである。
富士のふもとで夢を実現した夫婦
富士西麓の朝霧高原に、知り合いのご夫婦が暮らしている。
そのご夫婦が朝霧に越してきたのは19年前で、我々とはおおよそ1年遅れてそこで暮らしはじめた。
朝霧と我々が暮らす河口湖は、直線距離にして約25㎞で、車だと20分ほどの距離である。
ご主人の仕事はカメラマンで、ボクも一度、アウトドア・ブランドの雑誌広告のために、ニュージランド・ロケでごいっしょしたことがある。年齢はボクよりも15歳ほど上で、ご夫婦ともに、もう70歳を過ぎていると思う。
奥様はガーデニングを趣味としており、朝霧の自宅の広大な庭は、まるでどこか海外のように素敵な風情(ふぜい)で、季節の移ろいとともに、いつも美しい花々が咲き乱れている。
現在はパリに暮らすそのご夫婦のお嬢さんは母親の手づくりの庭で結婚披露宴をおこない、我々も出席したが、それはそれは素敵な宴だった。
その披露宴のあとすこしのあいだ交流がとだえていたが、一昨年の夏、久しぶりに朝霧の家におじゃました。
広大な庭は以前にも増して美しさに磨きをかけられ、歳月とともに育った草花たちが、庭のあちらこちらで立体的な奥行きを見せている。
いつも感じることだが、インテリアは一夜にしてできあがる。素晴らしい絵画、あるいは調度品は、買ってそこに飾ればそれで完成だ。が、エクステリア、とくにガーデニングはそうはいかない。
植物たちが成長したときのことを想像し、毎年、毎年、決まったタイミングで肥料をあげたり、ときには剪定(せんてい)もしなければならない。もちろん、防虫や雑草の除去などは日々の重労働で、庭が広ければ広いほど大変な作業となる。
広大で美しい庭を目の前にするとき、その美しさの裏にある日々の労苦に思いを馳せる。
その美しい庭を眺めながら、薪(まき)ストーブで焼いたピザをごちそうになり、ワインのグラスを傾けながら話が盛りあがる。
霊峰の美しさにふさわしい人とは
すると、すこしショッキングな話が飛び出した。
「じつはね、私たち5年以内にこの土地を手放さなくてはならないの」
えっ? ここまで手塩にかけた庭を手放す?
奥様の話はこうだ。
その土地は自分たちの所有物ではないが、数年前にきちんとした形で賃貸契約を結んだという。ところが、きれいに仕上がった庭を見て、最近、家主がいきなり無理難題を押しつけてきた。その家主の真意はわからない。自分の土地が想像もできないくらいに美しく変化したことへのジェラシーなのか、それともなんらかの他意があるのか?
もちろん法的に争えば、問題なくそのご夫婦が勝てるという。
「でもね、私たちはそういう争いで時間をムダにしたくはないの」と、奥様は優しい笑顔で話す。そして、続けた。
「きっとまた、もっといい土地が見つかるし、そこで新たな庭をつくれると思うと、逆にワクワクするわ!」と、少女のような表情を浮かべて言った。
なんとも……。返す言葉が思い浮かばない。
長い歳月をかけ、丹念に育ててきた美しい庭。それを失ってもなお、いまだ情熱だけは失わない。
それにしても、潔すぎる生き方だ。潔すぎて、はたから見ていて腹立たしいくらいだ。
しかし、確かにそういう輩と争うのは、貴重な人生の時間のムダづかいである。そういう人物にとって時間は無限にあるが、素晴らしい生き方をする人々は、どんなに短い時間をも惜しんで生きている。
ボクにもご夫婦の気持ちが、すこしは理解できた。
そしてその潔さと、いつまでもあせることなき新たなるチャレンジ精神が、いくつになってもその人を輝かせる源であると、深く感じ入ったのであった。
それから2年経ったいま、彼らはその言葉にたがわず、新しい土地で新たな庭づくりを始めた。奥様いわく「新しい土地に順応できる子(植物)は、大切にして連れてきた」そうで、すでに新しい土地を彩っているという。
そして、かつての土地は、いまではみすぼらしい荒れ地と化しているという。
そう、結局は「人」なのだ。
©TOKICHI KIMURA 2016