② 日本の「湖水地方」・富士五湖は水上スポーツの聖地
木村東吉さんの連載エッセー、第4回目。
今回は、「アウトドアライフが命」の続編です。
富士山に抱かれた湖上でスポーツし、
暮らす喜びに身も心も奪われてしまった、
「ウエイクボードのレジェンド」の登場です。
(毎月25日と10日ごろにアップ。全部で6か月の予定です)
文/木村東吉
富士に魅せられた初代「ウエイクボード・チャンプ」
我々が21年前に河口湖に越してきた頃、河口湖ではあるスポーツが爆発的な勢いで流行りつつあった。
水上スキーというのは古くから存在するが、モーターボートで曳(ひ)くのは同じでも、スキーではなく、サーフボードを短くしたようなボードを曳く、「ウエイクボード」というスポーツが台頭してきていたのである。時期としては同じ頃、雪山ではスキーを凌駕(りょうが)する勢いでスノーボードが流行っていたので、世はちょっとした「横乗り」ブームだったのかもしれない。
かの有名な俳優、岩城滉一さんもこの時期「ウエイクボード」にのめり込み、ボクの記憶では週3回以上、河口湖に来ては朝から夕方暗くなるまで、湖の上で飛んだり跳ねたりしていた。岩城さんは物事にハマると、それを完璧に自分のモノにするため、徹底的に努力する性格のようで、ボクも何度かご一緒させていただいたが、180度回転したり、波を大きく飛び越えたり、プロ顔負けのワザを披露してくれたものである。
その岩城滉一さんに「ウエイクボード」を指導していたのが、初代全日本チャンピオンである弘田登志雄であった。で、じつは偶然にも、この弘田登志雄は大阪出身で、しかもボクが十代を過ごした……と言うより、生まれ育った場所のすぐ近所に暮らしていたのである。で、その大阪人ふたりが、時期を同じくして河口湖にやってきたのであった。
「大阪なんかで? いったいどこでウエイクボードなんかしてたん?」と、ボクは弘田登志雄に尋ねる。
かくいうボクは大阪で生まれ育ち、二十歳までそこで暮らしていた。二十歳で上京してモデルの仕事を本格的にスタートさせ、27歳で家族をもった。子どもが3人生まれて手狭になり、いつのまにか横浜に住んでいた。
それから河口湖に越してきたので、当時ですでに大阪の町を出て、16年以上の歳月が流れていたが、ついつい大阪人を目の前にすると大阪弁が飛び出してしまう。これは、それからさらに21年経過したいまでも同じで、関西人を前にすると関西弁が出てしまう。
これはもう「呪縛」みたいなモノである。というのは、他の地方の人には理解できないかもしれないが、たとえば大阪出身者が東京で暮らしはじめるとする。で、当然のことながらアクセントは標準語風(あくまで「風」だけど)で話すように努力する。とくにボクのようにメディアの仕事に就く者には、標準語アクセントが求められる。まあ同じメディアの仕事でも「お笑い」の人たちは、そのまま大阪弁アクセントのほうが武器になると思われるが、モデル関係の仕事では、大阪弁だとどうしてもイメージ的に「洗練された感」が落ちる。
で、帰阪したときや大阪の友達が東京に来たときに、少しでも「標準語アクセント」で話すると、たちまち「アンタ! なに気取ってんの?」とか「うわ! 裏切り者!」などと、非難されてしまうのである。
無意識のウチにそういう非難を恐れる元大阪人は、こうして「大阪弁呪縛」に囚われてしまうのである。しかも、弘田登志雄はまったく大阪弁アクセントを気にしない人物である。それから21年過ぎたいまでこそ、その大阪弁アクセントに「甲州弁アクセント」が加味され、「弘田登志雄オリジナル・アクセント・ワールド」が形成されているが、それでも冗談をいうときの発想や言葉選びは、コテコテの大阪人のまんまである。
話はわき道にそれたが、先ほどのボクの質問に、「おもに琵琶湖で滑ってたなあ……」と弘田登志雄は答える。
「琵琶湖は広いよなあ……。でも、なんでこっち(河口湖)に来たん?」とボク。
「まあ河口湖は琵琶湖なんかに比べると圧倒的に狭いけど、湖面の状態がエエよね。ウエイクっていうのは、ボートの曳き波を使ってパフォーマンスをするから、波が荒れているとやりにくいよね。
その点、河口湖は琵琶湖に比べれば狭いけど、岬の陰で風を避けて滑ることができる。とくに早朝、鏡のような湖を滑っていて、雪をかぶった富士山なんか見えると最高やね! ここに来てホンマに良かったと思うわ」
レジェンドは「癒し人」になった!
ところでスポーツ選手の気の毒なところは、どんな種類のスポーツにしても、一般の人々と比較して現役寿命が短いことである。ある種のスポーツでは20代で引退を余儀なくされることもあるし、どんなに頑張っても、50歳を過ぎて現役でいられるスポーツ選手はまれだろう。
そういう意味においては、ウエイクボードの世界も低年齢化が進んでいた。そりゃそうだろう。水の上で飛んだり跳ねたり、若ければ若いほど有利な競技にはちがいない。だが、幸いにも日本における黎明(れいめい)期を築きあげた弘田には、一般人に指導するという立場が残されていた。だから、岩城滉一氏にも指導したのだ。
だが、その「指導する立場」も、いつまでも続けるわけにはいかない。いや、続けることは可能だが、性格的に弘田はその道を選ばなかった。
現役時代に経験したことを活かし、けがや故障のリハビリをする仕事を選んだ。確かにあれだけダイナミックに湖上を飛んでいれば、けがのひとつやふたつ、日常茶飯事であろう。
「トウキチさんなあ、オレのけがのなかでいちばんスゴかったのは、捻挫とかむち打ちとかじゃなくて、瞼の横をザクって切ったときやね」と、弘田は自分の左目の目尻のあたりを指さす。
「滑って逆立ちする”レイリー”という技を決めようとして、タイミングがずれて顔面から落ちてん。で、左目あたりに衝撃を感じて、湖からぷわって浮かんだら、ボートにいるみんなが大騒ぎ。そりゃ、顔じゅう血まみれやねんから、騒ぎもするわな」と言って、ニヤっと笑う。
「ほんでボートに上がって鏡見たら、目尻がざっくり……。左目だけ、大きなったらどうしよう、って心配したわ……」
さすが大阪人、けがの”自慢話”ひとつとっても、けっしてオチは忘れない。
じつはいま、ボクは弘田にずっとカラダのメンテナンスを施してもらっている。
「トウキチさんも、もう若ないねんから、走っている以上に、きちんとメンテナンスしな、アカンよ!」と言いながら、悲鳴が出るほど、腰のあたりをグリグリとする。弘田の施術は痛いのだが、それだけ良く効く。
一芸に秀でる者は…
いまでは、一切ウエイクボードをしなくなったという弘田だが、彼には夢中になっている趣味がひとつある。
それは写真だ。
またその写真がなかなかの腕前で、とくに富士山の写真がいい。というより、富士山の写真ばかり撮影している。
「トウキチさん、今度、富士山がきれいに見える山があったら、連れていってよ! とくに夜明けとか、月が富士山をみごとに照らす山とか……」
そのリクエストどおり、何度か弘田をお気に入りの山に連れていった。
「ほら、見て!」と言って、撮影したばかりの富士山の画像が映し出されたデジタルカメラの液晶画面を見せる。
そこには、実際に見る景色と、なんの遜色もない美しい画像が映っている。
ホントにつくづく器用なオトコだなあ……と思う。
ウエイクボードという、「水」とは切っても切れない関係を求めて富士五湖にやってきた弘田登志雄だが、現役をしりぞいたいまでも、この地域の魅力から離れられないようである。
©TOKICHI KIMURA 2016