Ⅱ アウトドアライフが命の巻 ①

木村東吉さんの「富士山と五湖の自然と暮らしに魅せられて」

① 「河口湖筋肉クラブ」につどう、
愉快で陽気な仲間たち

好評のうちにスタートした木村東吉さんの連載エッセーは、

早くも第3回目。

今回のテーマは、「アウトドアライフが命」です。

富士山のふもとを舞台にし、

いっしょに体を動かすことで結ばれた、

すてきな友だちの輪が広がります。

(毎月25日と10日ごろにアップ。全部で6か月の予定です)

文/木村東吉

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「走るの大好き!」が友だちの条件

古くから「類は友呼ぶを」という。また「同気相求む」という言葉もある。趣味や志向が似ていれば、自然な成り行きでそういう仲間が形成されるものである。
さて、このコラムの前号で、地元河口湖の閉鎖的な側面にふれた。ボクは21年前に横浜からこの地にやってきたのだが、その当時は河口湖町(かわぐちこまち)とその周辺の村々の間に、感情的な隔りがあることに驚いた。いや、「町VS村」というだけではない。同じ町内、同じ村内においても、地域によっていがみあったりしていることに驚いた。その驚きと同時に、ボクはこの地域では友だちができないだろうな……と、漠然と思った。で、その予感どおり、この地に暮らしはじめて21年たったいまも、「友だち」と呼べる存在が少ない。
その予感には根拠がある。まさに冒頭であげた「同気相求む」という言葉である。

少し話はそれる。
いまから30年ほど前、27歳のとき、ボクは人生で初のフルマラソンを走った。奇しくもそのマラソン・デビューはこの河口湖で、初マラソンながら3時間45分というタイムだった。初マラソンで3時間45分というタイムを出すと、次は3時間半を切りたくなり、やがては市民ランナーあこがれの「サブスリー(3時間を切ること)」をめざすのが常だ。が、ボクは違った。
「42.195㎞走れるのなら、もっと長い距離を走れるのではないか?」
そう思い、トライアスロンやアドベンチャー・レースに挑んだ。まあそれはともかく、なぜそのときフルマラソンを走ったかというと、娘が生まれた記念にだったのだ。
この世のすべての父親に共通することだと思うが、我が子がこの世に生まれてくるというそのときに、正直に言って父親たるもの、なんの役にも立たないのである。もちろんその他の動物と同じように、エサ(給料)くらいは運んでくるという役目は与えられている。しかし、どんどん大きくなっていくおなかに向かって優しく話しかける女性の存在は、新たにめばえる小さな生命にとって、何ものにも代えがたい。が、父親とは、かくも寂しい存在なのだ。そこで自分の存在を必要以上に誇示しようとたくらみ、フルマラソン出場を決めたのである。
やがてその娘が成長し、世の中の辛酸が理解できるころに「父さんはね。おまえがこの世に生まれ来るときにね、その苦難を少しでも分かちあいたいために、フルマラソンに挑んだのだよ!」と言って聞かせようと思ったのだ。で、その思惑どおりに娘が成長してそれを告げた。が、娘は「ふーん……」と一瞬、感動したような表情(ほんの一瞬だ)を浮かべたが、すぐにこう言った。
「でもそれって、父さんが走りたいから走ったんでしょ! いまだに暇さえあれば走っているし……」と、クールに言ってのけた。
「クー!」……ぐうの音(ね)も出ない。まさにそうなのだ。走ることが好きなのだ。ごもっともでごぜえます。
で、さきほどの「「同気相求む」である。
走るのが好きだから、走ることが好きな連中がまわりに集まる。「ノーム」の経営母体である「ハマユウ・リゾート」の経営者であるケイゴも、走るのがキッカケで仲良くなったし、カホはボクのアシスタントを務めるようになってから走るようになったが、以来、20年近くいっしょにマラソン・レースに出場している。我が妻も河口湖に来るようになって走りはじめたし、自分が「親しい」と呼べる人々はすべて走る。
ところがである。
この村(当時は村だった)にやってきたころ知りあった女性に言わせると、この村内で走っていると、すーっと静かに軽トラが近づいてきて、「なにゴッチョウなことしているだ? 乗ってけ!」と言われるらしい。「ゴッチョウ」とは地元の方言で「めんどう」という意味である。
つまり意訳すると、「ランニングなんてめんどうくさいことしていないで、この軽トラに乗れば? 行きたいところに連れていってやる」という意味である。
そういう非アクティブな慣習の村で、自分の「同気」を見つけ出すのは至難のワザである。

五湖周辺は、走るには最高の環境なのだが……。写真は、「奥河口湖」。

五湖周辺は、走るには最高の環境なのだが……。写真は、「奥河口湖」。

 

走る「シンガー・ドクター」

で、しばらくは妻とカホの3人で走りまわっていたが、そのうちに仲間がふえた。といっても、地元の出身者ではなく、この地に医者として赴任してきた人物である。

彼の名前は「福田六花(ふくだりっか)」という。最初、彼の存在を目にしたのはテレビのブラウン管(おぉ! このなんとも「昭和的」な響きよ!)のなかである。

じつは当時、愛知県で行方不明となった女子大生が富士のふもと、あの「青木ヶ原の樹海」で発見された。遠く愛知県で行方がわからなくなった女子大生が、なんでまた樹海をさまよい歩いていたのか? それはいまだに謎だが、なにしろ樹海で発見されて病院に保護された。で、その病院の副院長が福田六花だったのだ。女子大生が保護されたときの模様を、ニュース番組の取材を受けて話していたのだ。

が、その「医者らしからぬ風情(ふぜい)」に、女子大生保護のニュースより驚いた。その「風情」とは、白衣こそ医者っぽかったが、髪は胸まで届くロン毛で、ところどころ金髪のメッシュで染められ、なおかつ、キャロル・キング(60年代からいまなお活躍するアメリカを代表する女性シンガー)みたいにクルクルとカールされていた。

テレビのテロップに「保護された病院の副院長、福田六花さん」と紹介されていたが、ボクはその名を「福田ロッカー」と読みちがえ、「あー! こいつ、医者のクセに芸名使ってやがる!」と、失礼ながら愚弄(ぐろう)したのである(リッカ先生、ごめんね!)。

ところが、「福田六花(れっきとした本名)」は医者でありながら正真正銘のランナーであり、これまた驚いたことに、ボクの印象はまちがってなく、セミプロのミュージシャンだったのだ。

この「シンガー・ランニング・ドクター」なる、忙しげな異名をもつ「福田六花」と仲良くなり(実際にはマラソン大会で初めて出会った)、我々は毎朝のようにいっしょに走るようになった。

写真中央、ライオンのようなヘアスタイルが福田六花。

写真中央、ライオンのようなヘアスタイルが福田六花。

 

「河口湖筋肉クラブ」生まれる

ボクと妻、カホと福田六花の4人で走っていると、それぞれの知りあいが毎週末のように河口湖に遊びにくるようになった。毎週、遊びにきて、いっしょに湖畔や山を走り、そのあと酒をくらって大騒ぎをする。いつのまにかメンバーがふえ、気がつけば15人ほどのグループとなった。

年齢的には、もっとも若いメンバーで30歳そこそこ。ボクが「長老」で当時、45歳くらい。最長老はボクよりふたつ年長者だ。おおよその年齢は知っているが、それぞれ、どんな職業に就いているかもわからない。なにしろ走ることが大好きで、筋肉をいじめることに快感を覚える連中ばかり集まった。

で、ボクはそのグループに命名した。

「河口湖筋肉クラブ」

これが通称「カワキン」の結成由来である。

ボクは「カワキン」の初代会長におさまり、メンバーたちとともにいろいろなマラソン大会を走った。もっとも遠いところでは札幌のハーフマラソンにも「カワキン」の仲間たちといっしょに走った。ボクは参加しなかったが、「カワキン」のなかには、サンフランシスコまで行って、100㎞のウルトラレースに出場する仲間もいたし、毎年のようにギリシャの「スパルタスロン」に出場する猛者(もさ)もいた。

さきほども書いたように、メンバーの職業も社会的な地位も知らなかった。知っているのは「走るために日々、努力しており」、走ったあと「酒を呑んで陽気に騒ぐ」ことだけだった。だが、それで充分だった。

いまだにボクは走ることに喜びを見いだし、そのあと酒を呑んで陽気になれる男がいれば、どこに住んでいようと、すぐに「友だち」になれるのだ。

カホとはメキシコで80㎞のレースもいっしょに走った。

カホとはメキシコで80㎞のレースもいっしょに走った。

 

Ⓒ Tokichi Kimura  2016

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